チャールズ・ダーウィンの名言
チャールズ・ダーウィン
(1809年~1882年)
チャールズ・ダーウィン の生涯
1809年2月12日、イングランド西部のシュロップシャー州シュルーズベリーに生まれる。
父は医師で投資家であり、裕福な家庭であった。ダーウィンは6人兄弟の5番目の子供(次男)として育つ。
母はダーウィンが8歳のときに亡くなり、3人の姉が母親代わりをつとめた。
ダーウィンは子供のころから博物学的趣味を好み、植物、貝殻、鉱物の収集を行っていた。
1818年、ダーウィンは9歳から寄宿舎校で学び、16歳のときに父の医業を助けるために親元を離れエディンバラ大学で医学と地質学を学んだ。しかし、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、大学を中退。
1827年、父はダーウィンを牧師にするためにケンブリッジ大学神学部に入れる。18歳のダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え父の提案を喜んで受け入れた。
ダーウィンは大学でも必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒していた。
1831年、22歳で大学を卒業すると、ダーウィンは恩師の紹介でイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになる。ダーウィンの任務は、各地の地質、動植物の調査であった。
ビーグル号は1831年12月にイギリスを出航。南米(1834年7月)、ガラパゴス諸島(1835年9月)、ニュージーランド(1835年12月)、オーストラリア(1836年1月)、ケープタウン(1836年6月)などを経て、1836年10月、27歳のときにイギリス帰着。
ダーウィンは、ビーグル号での5年におよぶ調査から、種が独立して創られ、それ以来不変であるという考えに疑問を感じ、種の変化に関する研究を続ける。
1838年に「厳しい自然環境が、生物に起きる突然変異を選別し、進化に方向性を与える」という自然選択説に到達。その証拠を集めるため20年にわたり調査を継続する。
1839年1月、29歳のときにダーウィンは結婚。同年12月には長男が生まれる。
1858年、ダーウィン49歳のとき、イギリスの生物学者アルフレッド・ウォレスから同じアイディア(自然選択)の小論を受け取ったことをきっかけに、二人の小論を共同発表。
翌年発表した『種の起源』において、すべての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、自然選択により進化したことを明らかにする。『種の起源』は予想外の人気を博したが、自然選択説はすぐには受け入れられなかった。
晩年、ダーウィンは疲れやすくなったが、研究を止めることはなかった。1881年、72歳のときの最後の本では若い頃の関心に立ち戻り、ミミズが土壌形成に果たす役割を論じた。
1882年4月19日、ダーウィンは自宅で73年の生涯を閉じた。
ダーウィンの自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つであり、生物多様性に一貫した理論的説明を与えている。
チャールズ・ダーウィンの名言
生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである。
科学者は希望や愛情を捨てて、石の心を持つべきだ。
無知というのは、しばしば知識よりも確信に満ちている。科学によってこれやあれやの問題を解決することは絶対にできないと主張するのはきまって知識がない人である。
愚者の実験が好きで、私は常にそれを行っている。
ブランデーを飲んで酔っ払ったことのあるアメリカザルは、もう二度とそれに手をつけようとはしない。人間よりはるかに頭がいいということだ。
死ぬことは、ちっとも怖くない。
原因を探求し続ける力が、人を発見者にする。
私は名声を得るために自分の道から1インチなりともはずれたことはなかった。
有利な個々の変異を保存し、不利な変異を絶滅すること
これが自然淘汰である。
この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ。
私は、できるだけ一生懸命に、できるだけよくやったのだ。誰もこれ以上にはできない。